なぜ「やり込み」は誰にでもできないのか?分かった気になることと,本当に分かることの違い

雑記

どうも.久しぶり?ポエミー記事となります.
最近ちょっと考えていたこと少しだけまとめて書きたいと思います.

最近,チャレンジングなことをしてないないなと感じていて,そこからつらつらと思ったことです.

何かを少しやってみて,「ああ,こういう感じね」と思うことはあります.

釣りでもそうですし,仕事でも趣味でも,たぶん何でもそうだと思います.
最初の数回で,なんとなく輪郭が見えた気になる
そして,そのまま「自分はもうある程度わかっている」と思ってしまうことがあります

でも,本当はそこから先の方が圧倒的に長い.

少しやって分かった気になることは,正直,誰にでもできます.
ただ,やってみて「いや,まだ全然わかっていないな」と気づき,その“分からなさ”を一つずつ潰していくことは,誰にでもできることではないと思います.

では,なぜそれは難しいのか.
そして,どうすれば出来るようになるのか.

今回は,そんなことを書いてみます.


1.やり込みとは,回数を重ねることではない

まず最初に,ここはかなり大事だと思っています.

やり込みというと,どうしても「長時間やること」「回数を積むこと」のように聞こえます.
もちろん,それも大事です.経験値の総量は無視できません.

ただ,本質はそこではないと思います.

やり込みの本質は,自分が分かっていないことを見つけ続けることにあります.
そして,見つけた分からなさから目を逸らさず,仮説を立て,試し,修正し,もう一度見直すこと.
その反復に耐えること.
そこまで含めて,はじめて「やり込む」ということなのだと思います.

ただ長くやっているだけでは,人は案外,同じところをぐるぐる回ってしまうと感じます.
むしろ,長くやっているからこそ,自分では深くやっているつもりになってしまうことすらある.

これはちょっと多くの人にとって耳の痛い話ですが,真実だと思います.


2.なぜ誰にでもできないのか?

2.1 分からない自分を認めるのが,しんどいから

たぶん一番大きい理由はこれです.

人は,できれば「自分はそこそこ分かっている側の人間だ」と思いたい.
少なくとも,「全然わかっていなかった」とは思いたくないものです.

でも,やり込むと,これまで見えていなかった穴がどんどん見えてきます.

なぜ釣れたのか説明できない.
なぜ失敗したのか切り分けられない.
再現しようとすると全く再現できない.
前は理解したつもりだったことが,条件が変わった瞬間に崩れる.

こういう場面が増えてきます.

つまり,やり込むというのは,うまくなる作業であると同時に,
自分がどれだけ曖昧だったかを突きつけられる作業でもあるわけです.

これは普通にしんどいです.
だから,多くの人は,そこまで考える前に立ち止まります.自分は分かっているはずだと.
つまり,能力がないからというより,その不快さに耐えたくない心理が働くのだと思います.

2.2 地味で,退屈で,しかも報われるのが遅いから

やり込みというと,熱量とか執念とか,そういう言葉で語られがちです.
でも実際は,情熱より先に,退屈に耐えられるかどうかの方が大きい気がします.

同じ対象を何度も見る.
同じ失敗を別の角度から見直す.
微妙な違いを比べる.
小さな修正を繰り返す.

これ,派手さはほとんどありません.
しかも,短期では成果が見えにくい.

新しいことを始める時の高揚感は強いです.
でも,ひとつのことを深く掘る時間は,だいたい地味です.
そして人は,地味な時間を「停滞」と勘違いしやすいと思います.

本当は,その地味な部分にしか蓄積しないものがあると思うのですが,それにすら気づけない人がたくさんいるのだと思います.

2.3 「考えなくてもそこそこ出来る」地点で止まりやすいから

これもかなり厄介です.

ある程度うまくいくと,人はそこで満足しやすいと思います.
初心者を抜けて,周りより少し出来るようになって,たまに結果も出る.
このあたりが一番危ない気がします.

なぜなら,ここで人は「理解した」と錯覚しやすいからです.

でも,本当に深くまで掘り下げる人は,その先でやっと問いが増えていく.
なぜこの条件では機能したのか.
なぜ今日は同じことをしてもズレたのか.
何が支配変数で,何がノイズなのか.

そういう問いが増え始めた時に,ようやく入口に立ったと言えるのかもしれません.
逆に言うと,多くの人は,問いが増える前に答えを持った気になる
だから,深く入れないのだと思います.

誰も立てたことのない問いを立てる能力.これもやり込みには必要なことかもしれません.

2.4 本気で向き合うと,言い訳が効かなくなるから

中途半端なら逃げ道があります.

まだ回数が足りないから.
今回は条件が悪かったから.
本気を出せていないだけだから.
もっと環境が良ければ違ったから.

でも,本当にやり込んでしまうと,そういう逃げ道が減ってきます.
自分なりに準備して,考えて,試して,それでも駄目だった時,
残るのは「まだ理解が足りない」という事実です.

これを受け止める作業はかなり重いと感じることででしょう.

そして,人は,失敗そのものより,言い訳できない失敗を嫌がるのだと思います.
だから,本気の手前で止めてしまうことがある.

そして失敗したときに本気ではなかったと言ってしまう.これではやり込めるはずはありません.
なので,自分はいつも言ってます.どんなときだって自分は本気だし,その時できるベストは目指していると.


3.やり込みができる人は,何が違うのか

ここで誤解したくないのは,やり込める人が特別に根性のある超人だ,という話ではないことです.

もちろん,資質の差は多少あると思います.
ただ,それ以上に大きいのは,分からなさとの付き合い方だと思います.

やり込める人は,「分からない」を恥と捉えすぎないのでは?と思います.
むしろ,分からないところが見つかったこと自体を,前進として扱える.
というか完璧な人間などいないわけだし,たぶん本当に分かってる人なんて全然居ないことも知っている.だから自分が知らないことは恥ではないし,伸びしろだと捉えます.

ここが分水嶺.

うまくいかなかった時に,
「自分には才能がない」で終わらない.
「センスがない」と雑に悲観しない.
「今日は運が悪かった」で済まさない.

そうではなくて,

どこまでが分かっていて,どこからが曖昧なのか.
何を見落としていたのか.
次に何を試せば,少しでも切り分けが進むのか.

そこに意識を向ける.

要するに,やり込める人は,努力家というより,誤差に敏感な人なのだと思います.
自分のズレを雑に処理しない.
そこが大きいと思います.


4.では,どうすれば出来るようになるのか

4.1 「分かったこと」より「分からなかったこと」を記録する

たぶん,まずこれです.

人は成功を記録したがります.
うまくいった日,結果が出た日,自分なりに手応えがあった日.
もちろん,それも悪くないです.成功体験は自信にもなり,必要なことであります.

ただ,本当に重要なのは,
何が分からなかったのか
どこで判断を誤ったのか
なぜ再現できなかったのか
の方だと思います.

つまり,成功の記録よりも,違和感や自分の想定とのズレの記録が大事と思います.

上達する人は,失敗を美談にしません.
ちゃんと検証材料として残しますし,考えます.
ここを曖昧にすると,経験が知見に変わらないと思います.

4.2 「なんとなく駄目だった」を禁止する

これは自分にもあてはまるのですが,
「なんか違った」「うまくいかなかった気がする」で終わると,何も前に進みません.

強度が足りなかったのか.
タイミングがズレたのか.
条件判断が粗かったのか.
前提そのものが間違っていたのか.
そもそも観察量が足りなかったのか.

分からなさに名前をつける.
これがかなり大事と考えます.

雑な違和感を,具体的な問いに変える.
それだけで,次にやるべきことが見えます.

4.3 毎回,修正点を1つだけ持つ

あれもこれも直そうとすると,結局何も検証できません.

だから,毎回1つでもいいと思っています.
今回は入力の強さを見る.
今回は判断のタイミングだけ見る.
今回は条件整理だけに集中する.

ひとつの修正を持って反復する.
その方が,圧倒的に理解が深まる気がします.

ゴムボの釣りだと1日1回もジグチェンジ,タックルチェンジをしないことはザラです.
そうして1つ固定することによって見えてくる違和感や変化があるのです.

やり込みというのは,闇雲な総当たりではなく,
小さな修正を伴う反復なのだと思います.

4.4 他人やデータを使って,自分を客観視する

独学は尊いしそこにこそ楽しさはあります.
でも,独学には盲点があります.
自分の見えている範囲だけで,自分を評価してしまうことです.

だから,本気でやるなら,外部の視点が必要と考えます.

上手い人の言葉.
数値や記録.
動画やログ.
あるいは,自分とは違う考え方を持つ人との対話.

こういうものを入れることで,はじめて自分の癖や誤差が見えてきます.

一人で考え抜くことは大事です.
でも,一人で世界を閉じることは危ない.
ここは分けて考えた方がいいと思います.
なので,自分の考えの一部でも外に発信するようにしていますし,面白いな思った考えを持っている人には積極的に関わるようにしています.

4.5 「出来るようになる前提」で続ける

やり込みが止まる人は,どこかで
「自分には向いていないのではないか」
「センスがないのではないか」
という問いに苛まれてしまうことがあります.

もちろん,向き不向きはあります.
でも,その結論を出すのが早すぎる人は多いと感じます.

まだ観察が足りないだけかもしれない.
まだ言語化が甘いだけかもしれない.
まだ試行回数が不足しているだけかもしれない.
まだ修正の単位が大きすぎるだけかもしれない.

この段階で「向いていない」と言うのは,
案外,ただの早すぎる敗北宣言です.

厳しく言えば,才能の問題に見せかけた思考停止です.


5.やり込みの先にあるもの

やり込みの価値は,単に上手くなることだけではないと思います.

もちろん,結果も出やすくなるでしょう.
再現性も上がるでしょう.
見える景色も変わると思います.

でも,それ以上に大きいのは,
世界の解像度が上がることではないでしょうか.

前はひとまとまりにしか見えなかったものが分解されて見える.
偶然に見えていたものの中に,構造が見えてくる.
わかったつもりでいた対象が,実はどれだけ深かったかを知る.

これは,しんどいですが,最高に面白いです.

釣りでもそうだと思います.
最初は「釣れた」「釣れなかった」しかなかったものが,
やり込むほどに,潮,ライン角度,レンジ,シャクる入力,間,地形,ベイト,船の流れ方,
そういう無数の要素に分かれて見えてくる.

そして,その一つひとつが,ただの情報ではなく,
自分の身体感覚と結びついた理解に変わっていく.

たぶん,人が何かを深く好きになるのは,
その対象の複雑さと,自分の未熟さの両方を知ったあとです.

少し触って「わかった」と思っているうちは,まだ浅い.
本当に面白くなるのは,その先なのだと思います.


6.おわりに

結局のところ,やり込みが誰にでもできないのは,
それが単なる努力ではなく,
自分の無知や甘さや曖昧さと向き合い続ける行為だからだと思います.

だから苦しい.
だから退屈です.
だから,多くの人は途中で止まる.

でも逆に言えば,そこから逃げなければ,少しずつでも見えるものは変わっていきます.

分かった気になることは簡単です.
けれど,本当に分かるためには,
「分からない」を見つける力と,それを放置しない姿勢が必要です.

やり込みとは,たぶん,才能の証明ではありません.
自分の曖昧さをごまかさないという,態度の問題なのだと思います.

そして,その態度を持てた時に,
人はようやく,対象の本当の深さに触れられるのではないでしょうか?

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