釣り業界は,盛り上がる前に成熟しないといけないのではないか?と思った話

雑記

どうもです.
今回はちょっと雑記です.

釣り業界を盛り上げたい,みたいな話について,少し考えていました.

最近,Xで小塚さんのポストが流れてきました.
内容としては,「元気の無い釣り業界を盛り上げたい」という相談に対して,「別に盛り上がらなくていいんじゃないですかね?」と返した,というようなものです.

かなり強い言葉です.
たぶん,釣り業界側の人や,釣りを盛り上げたいと思っている人からすると,なかなか飲み込みづらい言葉だと思います.

でも,自分はこのポストを見て,正直ちょっと考え込んでしまいました.

釣り人が増えることは,本当に良いことなのか.
釣り業界が盛り上がることは,本当に無条件に喜ばしいことなのか.

釣具が売れることは悪いことではないと思います.
釣具屋が続いてほしいですし,メーカーにも良いものを作り続けてほしいですし,遊漁船にも残ってほしいです.

釣りを始める人が増えることも,それ自体は悪いことではないと思います.

自分もブログを書いています.
釣行記も書きます.
タックルのインプレも書きます.
釣りの面白さも書きます.

なので,「釣り人が増えることは悪だ」みたいなことを言うつもりはありません.
そんなことを言い出すと,じゃあお前のブログは何なんだという話になります.

ただ,それでも思うわけです.

釣り業界を盛り上げる,という言葉は,思っているより危ういのではないかと.

釣り人が増えて,本当に嬉しい釣り人はいるのか

釣り業界が盛り上がる.

この言葉だけ聞くと,かなり前向きには聞こえます.

釣り人が増える.
釣具が売れる.
遊漁船の予約が埋まる.
動画が回る.
イベントが増える.
SNSに釣果写真が並ぶ.
新しい釣り方,新しい魚種,新しい遠征先が注目される.

一見すると,良いことばかりに見えます.

しかし,釣りは普通の消費レジャーとは少し違う面があると思います.
フィールドがあります.
魚がいます.
港があります.
川があります.
海があります.
漁業者がいます.
地域住民がいます.
そこに元々ある生活や仕事や生態系があります.

釣り人が増えるということは,そこへ負荷をかける人間の欲望が増えるということでもあります.

魚を釣りたい.
大きい魚を釣りたい.
たくさん釣りたい.
人より釣りたい.
珍しい魚を釣りたい.
SNSに上げたい.
認められたい.

この欲望自体は,悪ではないと思います.
釣り人なら誰でも持っているものだと思います.
自分にも普通にあります.前にも書いたんですが,無い方がおかしい.

ただし,その欲望の総量が増えすぎた時,釣り場の崩壊が始まる気がします.

ゴミが増える.
駐車問題が起きる.
騒音が出る.
立入禁止に入る人が出る.
漁港で作業の邪魔になる.
ポイントがSNSで拡散される.
狭い場所に人が押し寄せる.
魚へのプレッシャーが増える.
そして最後には,釣り禁止になる.

これ,40代以上でそこそこ釣りをしてきた人なら見てきた光景だと思います.

自分がよく行く港に人が増える.
いつも空いていたポイントに車が並ぶ.
静かだった場所に人が増える.
地名は伏せているけど,分かる人には分かる写真が上がる.
そのうち人がさらに増える.
トラブルが出る.
看板が立つ.
終わる.

こういう流れは,わりと珍しくありません.
自分も鹿児島に来て10年ちょっと,これと同じことを数回は目にしました.

なので,小塚さんの言う「釣り人が増えて喜ぶ釣り人っているかな?」という問いは,いいところを突いていると思います.

「自分のフィールドに」釣り人が増えて,本当に嬉しい釣り人はどれくらいいるのでしょうか?
たぶん,そこまで多くない気がします.

嬉しいのは,むしろ釣り人を相手に商売している側かもしれません.
釣具メーカー,釣具店,メディア,遊漁船,インフルエンサー,イベント側.

もちろん,それらが悪いという話ではありません.
釣り文化は,一部そういう人たちにも支えられています.
自分も道具を買いますし,船にも乗りますし,情報も見ます.

ただ,釣り人を増やすことで利益を得るなら,その釣り人がフィールドに与える負荷についても,もう少し本気で引き受ける必要があるのではないかと思います.

「釣れる」
「簡単」
「今がチャンス」
「この釣りが熱い」
「この魚が狙える」
「このエリアが面白い」

こうやって人を呼ぶなら,その先にあるゴミ,駐車,資源,漁業者との摩擦,地域との関係まで,本当はセットで語らないといけないと思います.

一例を出すなら,メーカーはじめとした影響力のある人たちがその摩擦を放置しすぎた結果が今のクロマグロ遊漁でもあるような気がします.

「本物だけが残ればいい」という言葉について

小塚さんのポストの中で,引っかかった言葉があります.

本物だけが残ればいい

という部分です.

この感覚も,分からなくはありません.
むしろ,釣りを長くやっている人ほど,少しは分かってしまう部分があると思います.

釣り場を荒らす人が減ってほしい.
魚を雑に扱う人が減ってほしい.
ゴミを捨てる人が減ってほしい.
場所を晒す人が減ってほしい.
釣果だけで騒ぐ人が減ってほしい.
地域や漁業者への想像力がない人が減ってほしい.

そういう気持ちはあります.
自分にも正直あります.

小さな釣り場に人が押し寄せて,ゴミが増えて,駐車トラブルが起きて,その場所が釣り禁になっていく.
そういうものを見ていると,「もう分かっている人だけでいいんじゃないか」と思いたくなる瞬間はあります.

ただ,それを「本物だけが残ればいい」と言ってしまうと,かなり危ういと感じます.
言葉が足らないからです.

まず,その本物とは誰なのか?なんなのか?という問題があります.

魚をたくさん釣る人でしょうか.
長く釣りをしている人でしょうか.
道具に詳しい人でしょうか.
マニアックな釣りをしている人でしょうか.
人が知らない場所を知っている人でしょうか.
メーカーや業界に近い人でしょうか.
それとも,釣りで飯を食っている人でしょうか.

多くの人はそれを本物と言ったりすると思います.
しかし,自分はどれも,それだけでは本物の条件にはならないと思います.

釣りが上手くても,釣り場を壊す人はいます.
長く釣りをしていても,マナーの悪い人はいます.
道具に詳しくても,魚への扱いが雑な人はいます.
人が知らない場所を知っていても,その場所を私物化しているだけの人もいます.
業界に近くても,フィールドへの負荷を気にしない人もいます.

逆に,釣りを始めたばかりでも,場所に対する感度が高い人はいます.
魚を丁寧に扱う人もいます.
ゴミを拾う人もいます.
地元の人にきちんと挨拶する人もいます.
SNSで場所を出さない良識を持った人もいます.

つまり,本物かどうかは,釣歴や釣果や道具の濃さでは決まらないと思います.

本物という言葉は,かなり簡単に選民思想に陥りやすいです.
つまり,「自分たちは分かっている側で,あいつらは分かっていない側だ」という線引きになりやすい.

そして,その線引きはたいてい,自分に都合よく引かれます.

自分の釣りは文化.
他人の釣りは消費.
自分の持ち帰りは正当.
他人の持ち帰りは乱獲.
自分のポイント利用は経験.
他人のポイント利用は荒らし.
自分のローカルルールは秩序.
他人の行動はマナー違反.

こうなってしまうと,かなり危ないです.
こういう考え方をしている人と本当にたくさん見ます.
オフショアでも誰のものでもないポイントを「自分のポイント」と表現する人もいます.
他の人がその人の独力で見つけたポイントでもあいつは自分のポイントを盗んだなとど言いがかりを付ける人も居ます.

釣り場を壊してきたのは,初心者やライト層だけではないと自分は思います.
むしろ,長く釣りをしてきた人たちの中にも,釣り場を壊してきた人は普通にいます.

「昔からやっていた」
「地元だから」
「常連だから」
「誰も見ていないから」
「昔はよかったから」
「みんなやっているから」

こういう言葉で,かなり多くのことが正当化されてきてしまっているのも釣りの側面だと思います.

だから,自分は「本物だけが残ればいい」という言葉には,少し警戒しています.

本当に残るべきなのは,「本物」を自称する釣り人ではなく,釣り場を残せる釣り人だと思います.

釣れる人ではなく,続けられる形で釣れる人.
長くやっている人ではなく,長く釣り場を使えるように振る舞える人.
博識の人ではなく,自分の欲望を制御できる人.
ローカルに詳しい人ではなく,地域との信頼を壊さない人.

そういう人が残っていたほうが良いと思います.

なので,「本物だけが残ればいい」と言うなら,その本物の定義はかなり厳しくしないといけません.

本物とは,魚を釣れる人ではない.
釣り場を未来に残せる人です.

最終的に本物とは,自分の釣りたい欲望にブレーキをかけられる人だと思います.

本物とは,場所を知っている人ではない.
場所を守れる人.

そこまで言うなら,自分も少し分かります.

もしかすると,小塚さんの言う「本物」は,こちらが定義したり,育てたりするものではなく,自然の中で勝手に育つものなのかもしれません.その感覚も分からなくはありません.

自分も,釣り人を上から教育してやろう!みたいな話には気持ち悪さがあります.嫌いです.

ただ,勝手に育つ人がいる一方で,勝手に釣り場を壊す人もいます.今の釣り場にそれを全部受け止める余裕があるのかと言われると,もうキャパはないと思います.
だから,自然の中で勝手に育つ本物への期待と,現場を壊さないための最低限の仕組みは,分けて考えた方がいいと思います.

ということで,単に「人が減って,本物だけが残ればいい」と言うだけでは,かなり雑に感じてしまいます.
まぁ,小塚さんもたぶん,アテンションのために雑に言っているのであって本心は同じ方向だと思いたいです.

そうでないとしたら,釣り場保全の話に見えて,実は自分に都合のいい人間だけを残したいという話になりかねません.

そして,もし,そういう選別意識があるのならば,釣り文化を成熟から遠ざけるものでもあると思います.

成果主義は消せないと思います

釣りには,どうしても成果主義があります.

大きい魚を釣りたい.
たくさん釣りたい.
人より釣りたい.
難しい魚を釣りたい.
珍しい魚を釣りたい.
良い写真を撮りたい.
船長に認められたい.
仲間に認められたい.
SNSで反応が欲しい.

これは消せないと思います.以前のジギング論でも同じような話を書きました.

消せないというより,消そうとする方が不自然な気がします.
自分にも普通にあります.

そこまで否定すると,釣りの楽しさまで嘘になると思います.

問題は,承認欲求そのものではありません.
承認欲求に支配されることです.

釣りが好きだったはずなのに,いつの間にか人に見せるための釣りになる.
魚を見ていたはずなのに,他人の目を見ている.
海に出たかったはずなのに,自分が上だと証明するために海へ行く.

これはかなり危ないと思います.

そして,この危うさは個人の問題であると同時に,業界の問題でもあります.

なぜなら,今の釣りの発信は,どうしても釣果に偏るからです.
大きい魚=すごい.
数が出た釣行=すごい.
遠征=すごい.
映える写真=いい!.

写真から地味な判断は見えません.
場所を伏せたことは評価されにくいです(むしろ出せよ派もいる.
持ち帰りを抑えたことも,釣れるけれど入らなかったことも,SNSではほとんど見えません.
釣らない判断は,そもそも写真になりません.

だから,承認される対象が釣果に寄っていく.
これはある程度仕方ないです.

ただ,だからこそ,承認される基準を少しずつ変えていく必要があると思います.

今の釣りでは,どうしても「上手い人=釣る人」になりがちです.

それは間違いではありません.
釣る人はやっぱり上手いと思います.
毎回ちゃんと結果を出す人には,運だけじゃない理由があります.
潮を見る力,魚を探す力,道具を合わせる力,操作の精度,経験値.
そこは素直にすごいと認めないといけないと思います.

ただ,上手い釣り人の定義が「釣る人」だけになるのが危ういと感じるのです.

釣れるけれど,場所を潰す人.
釣れるけれど,魚を雑に扱う人.
釣れるけれど,必要以上に持ち帰る人.
釣れるけれど,地域と揉める人.
釣れるけれど,初心者を見下す人.
釣れるけれど,釣り禁を軽く見る人.

こういう人は,魚を釣る技術はあるのかもしれません.
しかし,釣り人として成熟しているかと言われると,かなり怪しいと思います.

本当に上手い釣り人というのは,釣る力と,釣り場を壊さない判断力の両方を持っている人だと思います.

釣れるけれど,あえて場所を出さない.
釣れるけれど,必要以上に持ち帰らない.
釣れるけれど,小型が多ければ移動する.
釣れるけれど,産卵絡みなら控える.
釣れるけれど,人が多ければ入らない.
釣れるけれど,その場所が荒れそうなら黙っている.

こういう判断ができる人だと思います.

釣ることだけではなく,釣らない判断ができる人.
これはかなり成熟した釣り人だと思います.

釣果を否定する必要はありません.
でも,釣果だけが成果ではない,という価値観がもっと広がってほしいと思うのです.

自由な水辺は,もう当たり前ではない

小塚さんのもう一つのポストでは,「盛り下げたい」ではなく,本意は「盛り上がらなくていい」であること,現実的にはライセンス化のような管理しか策がないのではないか,しかし管理された釣り場を子どもの原風景にはしたくない,というような葛藤が書かれていました.

この気持ちは,かなり分かります.

子どもには,自由な水辺で遊んでほしいです.
フェンスと看板と許可証だらけの水辺ではなく,ふらっと川へ行き,池へ行き,海へ行き,魚やカエルや虫や泥に触れるような時間があってほしい.

自分,出身が佐賀だったので,小学生の頃は身近にクリークとよばれる用水路があり,毎日のように釣りをしていました.フナやコイ,ブラックバスから雷魚まで,その頃の釣りがあっての今なので,水辺へのアクセス性は人間の心を豊かにしてくれると思います.

たぶん,小塚さんも釣り場を壊したいわけではないと思います.
むしろ,思いとしてはかなり近い気がしています.

釣り業界が無邪気に盛り上がることへの違和感.
管理されなければ成立しない水辺への寂しさ.
子どもが自然の中で自由に遊べる余地を残したいという感覚.
釣りをただの消費として扱いたくないという思い.

そこには,自分もかなり共感します.

たぶん,見ている方向は同じです.
ただ,言葉の出し方が少し乱暴だったのでは?と思います.
本人もあえて強い言葉で・・・というような趣旨のポストもされていました.

とはいえ,一つだけ引っかかる部分があります.

それは,釣り禁に対する言い方です.

ここ釣り禁だぞ!見つからないように釣れ!笑」

これを冗談として受け取る人もいると思います.
本人も,本気で釣り禁を破れと言いたかったわけではないのかもしれません.

でも,ここはやはり少し危うさを感じてしまいます.

というのも,釣り禁は,ある日突然,何の理由もなく生まれるわけではありません.
もちろん,過剰な禁止や,管理側の都合だけで閉じられている場所もあるとは思います.
釣り人からすると,納得しにくい釣り禁もあります.

ただ,多くの場合,その背景には何かがあります.

ゴミ.
迷惑駐車.
騒音.
立入禁止エリアへの侵入.
漁業者とのトラブル.
係留船や漁具への接触.
事故.
近隣住民からの苦情.
魚の放置.
などなど

そういうものの積み重ねで,釣り場は閉じられてきた経緯はあると思います.

釣り禁は釣り人と地域との関係が,どこかで壊れた結果であると考えます.
自分は実際その釣り禁止に関与はしていないからこそのもどかしさはあるとは思うのですが,地域と釣り人の関係性の歴史だと見て,それが加速しないようにする努力は必要だと思います.

だから,そこを「見つからないように釣れ」という笑いにしてしまうと,その背景にいる人たちの怒りや疲れを軽く扱ってしまうことになりかねないと思います.

釣り禁の場所で釣ることは,自由ではありません.
それは,すでに壊れた信頼の上に,さらに泥を塗る,つばを吐く行為だと考えます.

自由な水辺を残したいなら,釣り禁を破る子どもを面白がるのではなく,釣り禁が増えないように振る舞える大人を増やす方が先だと思います.

悪ガキのように遊ぶことと,地域の信頼を壊すことは違います.
自然の中で自由に遊ぶことと,社会的なルールを無視することも違います.

ここは混同してはいけないと思います.

大人が子どもに見せるべきなのは,

「バレないようにやれ」

ではなく,

「ここで遊び続けたいなら,ここを壊さないように遊べ」

という態度ではないでしょうか.

自由を教えるなら,責任も一緒に教えないといけません.
責任を抜いた自由は,結局,次の禁止を生むだけです.


釣り業界は,盛り上がる前に考えるべきことがある.
そこは本当にそうだと思います.

ただ,釣り禁を笑い話にする部分だけは,自分は少し引っかかりました.

たぶん小塚さんのポストも本意ではないと思います(文字通りにには受け取れないほうが良い.
ただ,言葉は読んだ人によって様々な受け取られ方を持ちますし,裏を読む前にまずは文字通りの受け止めをするほうが自然です
釣り禁を軽く見る空気だけは,これ以上広げない方がいいと思います.

自由な釣り場を残したいからこそ,釣り禁を軽く扱ってはいけない.
そこは,釣り人側がかなり厳しく自分たちに言っておいた方がいいと自分は思います.

良識だけでは足りない

こういう話をすると,結局マナーの話になることがあります.

ゴミを捨てない.
迷惑駐車をしない.
港で騒がない.
立入禁止に入らない.
魚を粗末にしない.
地域の人に迷惑をかけない.

正直,これは釣り以前の話です.
義務教育レベルの公共性の話だと思います.

なので,「釣り人のマナーを良くしよう」だけでは限界があります.
社会全体の良識の問題でもあります.

ただ,だからといって「教育から変えないと無理ですね」で終わると,釣り場の方が先に終わります.

だから現場では,自分は良識に期待しすぎない仕組みも必要だと思います.

遊漁券.
ライセンス制.
協力金.
釣獲制限.
持ち帰り制限.
禁漁期.
立入可能エリアの明確化.
駐車場所の整理.
違反者への対応.
釣具店やメーカーやメディアによる啓発.
遊漁船やガイド側のルール作り.

こういうものは,窮屈に見えるかもしれません.
というか実際,窮屈です.

しかし,無管理の自由が維持できないなら,最低限の管理で自由を残すしかないと思います.
何も決めずに放置して,最後に全面禁止になるよりは,はるかにましと考えるからです.

自由を残すための管理.
これは矛盾しているようですが,今の釣り場ではかなり現実的な考え方だと自分は思います.
どのレベルまで管理するか,管理できるかなどの制度論はまた難しい話なのですが・・・.

では,自分に何ができるのか

こういう話をすると,どうしても大きな話になります.自分も大きい話を書きました・・・

釣り業界の成熟.
ライセンス制.
資源管理.
釣り場のキャパ.
メーカーやメディアの責任.
義務教育レベルの公共性.

どれも大事だと思います.
ただ,話が大きくなりすぎると,結局「誰かが何とかしてくれたらいいですね」で終わってしまいます.

それでは,あまり意味がないというか何も解決しないと思います.

なので,自分なりにできる小さなことも考えておきたいです.
本当にささやかなことですが,こういうものの積み重ねしかないのだと思います.

まず,場所を雑に出さないこと.

地名を伏せるだけではなく,背景やタイミングにも気をつける.
港の形,山の稜線,船の写り込み,投稿した日付や潮回り.
そういうものから,分かる人には分かります.

特にキャパの小さい場所や,小場所,産卵絡み,局所的な魚種については,できるだけ場所は出さないようにしています.
ただ,本来の自分は釣り場は全オープン派ではあります・・・・.
色々考えた結果,やはり出さないほうが良いよねとなっているだけです.
オープンな場では全然書いていませんが,自分の知り合いなら自分がどこで釣りをしているかはみんな知っています.

次に,釣果だけで記事を終わらせないこと.

何匹釣れたか,何センチだったかだけではなく,なぜそう考えたのか,どこで迷ったのか,何が分からなかったのかを書きたい(全然書けてないですけれど.
釣果ではなく,釣りの過程を書く.
釣れた魚の写真だけではなく,釣れなかった時間や,外した判断もちゃんと記事にする.

そういう記事を増やすことで,少しでも釣果至上主義から距離を取りたいとは考えています.
2025年釣果はすべて公開すると言ってしまった手前,守るために最近はわりと雑な釣行記を更新してしまっていますが,これは自分の本意とは少し違います・・・.
本当はもっと考えるためのスパイスになるような記事を書きたい.そう思っています.
頑張ります.

持ち帰る量も,自分なりに考えたいです.

釣れる時ほど,もう一匹,もう一匹となりがちです.
でも,食べきれない魚を持ち帰っても,それは釣りの上手さではない気がします.
実際,昔は釣る量をかなり制限していました.
が,最近は釣れるだけ釣るとまでは言いませんが,1ポイントとか3匹ぐらいは釣ってしまうことがあります.自分なりのルールは課していますが,見えにくい部分もあり,総量としては結果として人よりはたくさん釣ってしまっているかもしれません.

あらためて,食べる分だけ持ち帰る.
小さい魚はできるだけ避ける.
リリースが難しい釣りでは,そもそも釣る数を考える.

こういう当たり前のことを,自分の釣りの中に置いておきたいです.
足るを知ることは大事だと思います.

釣れた時ほど,すぐに出さないことも大事だと思います.

リアルタイムの釣果情報は,人を動かします.
特に小さな釣り場では,それだけで負荷になります.

なので,釣行記は少し時間を置いて出す.
日付や潮回りを必要以上に具体的にしない.
「今すぐ行けば釣れる」という空気を作らない.

これのあたりは小さいですが,自分にできる配慮だと思います.

釣れなかった釣行も,できるだけ書きたいです.

釣れた時だけ記事にすると,釣りが簡単に見えてしまいます.
実際には,外す日もあります.
迷う日もあります.
何も分からずに帰る日もあります.

そういう部分も含めて書くことで,釣りを必要以上に煽らないようにしたいです.

ゴミを出さないのは当然として,余裕があれば少し拾って帰る.
これも続けたいです.

大げさな清掃活動ではなくても,帰りに目についたラインや袋を一つ拾うだけでも違います.
それを特別な善行ではなく,釣りの片付けの一部にしたいです.
やってはいますが,まぁ記事にしつこくかくと嘘くさくなったり偽善すぎるように思ったり,強迫観念的になったりするので,誰かに強制するものではないのでひっそり続けようと思います.

誰かに釣りを教える時は,釣り方だけでなく,場所での振る舞いも一緒に伝えたいです.

ノットやジグの動かし方より前に,車をどこに停めるか,港で邪魔にならないか,ゴミをどうするか,場所をSNSに出していいのか.
そういうことを最初に伝えないと,釣れる人は増えても,釣り場に立てる人は増えないと思います.

SNSでも,違和感のある発信には乗らないようにしたいです.

場所を晒している投稿,釣り禁を軽く見る投稿,魚を雑に扱う投稿,過剰に持ち帰っている投稿.
そういうものに反応しない.

逆に,場所を守っている投稿,釣果だけでなく考察や配慮がある投稿をちゃんと評価する.
SNSの空気は,そういう小さな反応の積み重ねでできると思います.

それから,消費者としてどこにお金を落とすかも考えたいです.

ただ釣果を煽るだけの発信より,フィールドや魚や地域のことまで考えているメーカー,船,店,メディアを応援したいです.
釣り業界を変えると言うと大げさですが,お金の使い方は小さな投票だと思います.

そして最後に,釣らない判断を自分の中で肯定したいです.

釣れるかもしれないけれど,人が多いから入らない.
釣れたけれど,場所が荒れそうだから書かない.
もう少し釣れそうだけれど,今日はここまでにする.

そういう判断を,負けではなく,自分の中の釣りの上手さとして持っておきたいです.

どれも小さいことです.
これだけで釣り業界が変わるとは思いません.

でも,自分の釣りと,自分の発信くらいは,自分で変えられます.
まずはそこからだと思います.
こういったことを再考する良い機会となりました.

釣り業界が本当に盛り上げるべきもの

では,釣り業界は盛り上がらなくていいのか.

自分は,そうは思いません.
ただし,今までと同じ意味で盛り上がるなら,未来は危ないと思います.

釣り人を増やす.
釣具を売る.
釣果を煽る.
動画を回す.
映える魚を並べる.
小さな釣り場に人を押し込む.

そういう盛り上がりなら,正直もう必要ないのではないかと思います

それは釣り文化ではなく,釣り場を燃料にした自然の消耗(いずれ尽きる)だと思います.

これから釣り業界が本当に盛り上げるべきものは,別にあると思います.

釣り場を守る人を増やすこと.
魚を資源として考える人を増やすこと.
地域と対話できる人を増やすこと.
初心者を導ける人を増やすこと.
SNSで煽らず,抑制できる人を増やすこと.
釣果よりも,釣り場を残すことに価値を置ける人を増やすこと.

つまり,釣り人を消費者として増やすのではなく,責任ある利用者として育てること

釣り業界が目指すべきは,単なる人口増加ではないと思います.
釣り場に立つ資格のある釣り人を増やすことだと考えます.

この言い方は少し強いかもしれません.
でも,釣り場に立つということは,魚の命に触れ,地域の水辺を使い,誰かの仕事場の近くで遊ぶということです.

そこには,やはり最低限の資格というか,態度が必要だと思います.

おわりに

釣りは楽しいです.

自分の釣りの場合は
朝の港の空気.
沖へ出る時の少し冷たい風.
ジグを落としている時の期待.
ラインがふっと止まる瞬間.
魚と一本のラインで繋がる感覚.

そういうものを含めて,釣りはかなり面白い遊びだと思います.

だからこそ,自分はこの遊びを長く残したいです.

そのためには,ただ盛り上げるだけでは足りません.
むしろ,盛り上がり方を間違えると,釣り場が無くなってしまうそういう危機感はあります.

釣りたい欲望を否定する必要はないと思います.
釣果を求めることも悪くありません.
人に認められたい気持ちも,自然なものです.

ただ,その欲望に飲み込まれると,釣りは浅くなります.
そして,釣り場は消耗していきます.

釣り業界の成熟とは,釣りを小さくすることではなくて,釣りを,長く続けられる形に変えることだと思います.

釣り人を増やすことそのものが目的ではない.
本当に必要なのは,釣りたい欲望を制御できる人を増やすこと.
そして,釣り場を未来へ残せる人を増やすこと.

釣り業界は,盛り上がる前に成熟しなければならない.

そんなことを考えました.

でわ.

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